うつ病ブログ

うつ病になったらどうしたらいい?何もしたくないけどした方がいいこと、鬱の日々をモンゴロイドが綴ります

退院から学校に通えるようになるまで



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退院してから、学校に通えるようになるまでは、毎日家に引きこもっていた。
当時、父が使っていたパソコンでブラインドタッチのゲームや、また当時ドはまりしていた「犬夜叉」のサイト(同人誌や、イラスト、ドリーム小説)を見たり、またお絵かき掲示板犬夜叉で登場するキャラクターをよく書いたり、名前の知らない人と掲示板上でコミュニケーションするのが楽しかった。

 

何カ月も休んでいたにも関わらず、勉強しなくちゃいけないとか、そういう焦りはなかった。いや、そこまで考えられていなかった。

また、母は私には理解を示してくれていたので、休みの日はなるべく外出や、近所に住んでいる不登校に理解のある親戚と会ったり、なるべく社会と関わり合えるようにしてくれていたと思う。

夜は相変わらずすぐには寝れなかったので、当時テレビにも興味が失せていた私はラジオを聞いていたりして眠りについていた。

私はよく覚えていないのだが、当時朝起きるときにアラームを設定できるCDデッキがあり、それで私がアラームとして設定していた。
曲は今話題の「M~愛すべき人がいて~」という暴露本を出した、浜崎あゆみさんの「A song for ×××」だった。

知らない人は一度聞いてみてほしいのだが、今思うと大層暗い曲(;'∀')
「居場所がなかった、見つからなかった、一人きりで生きていく…」
といったもので、当時の私の心境を表していたため、心のどこかで共感していたのだと思う。
泣きたいときは泣けば良いと言うように、暗い時には暗い曲を聞くのも一つの療養方法なんだと今考えるとそう思った。

そんな日々を過ごすなか、ある日担任の先生と同級生が見舞いに来てくれた。
同級生と言ってもトラブル外の同級生で(そこまで仲良くない)、小学校から何回か遊んだことのある子たちだった。

そういえば、ここで担任の先生の話をしたいと思う。
私が不登校になってから、卒業するまでこの先生はとても良く接してくれた。

不登校になり、母は一度はこの先生から「フリースクールに通ってみてはいかがだろうか」と持ち掛けられたらしい。

その時、母は激怒した。ちょっと過保護に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、

トラブルの原因が私にもあるとは言え、何も対策や原因の追究をしない、該当の生徒に面談や確認もないままフリースクールを進める、という学校の対応が許せなかったと言いう。

そして、学校側がそういう対応ならこちらも出るとこでます!校長先生にもそのようにお伝えください!と言ったらしい。
それから学校側の対応は180度変わり、フリースクールを進まれることなく、体調回復と私の意欲の回復を待つ、という姿勢に変わった。

私は全然知らなかったのだが、父は子育てに関しては放任主義だったため、母は一人で私のことを抱え込む形になった。
時には先生に泣きながら電話をしたり、胃に穴が開くくらい毎日胃痛に悩まされた。
担任の先生はその度にしっかりと母の話に耳を傾けてくれ、私が学校に通いやすくなるためにと該当の生徒との面談や、対応の進捗を母に報告してくれたり、私の様子を必ず確認する姿勢を見せてくれたという。

担任の先生と同級生が見舞いにきてくれても、私はすぐに学校に通えるようにはならなかった。
同級生もトラブル外の生徒であったが、自分が不登校になっていることや、その現状を見られたことが少し恥ずかしいような、何とも言えない気持ちを感じた。
でも、自分を待っていてくれる人もいるんだと少しながら思えたことは、自分への自信に繋がったと思う。

ある日、私は「学校に行く」と母に言った。
母は特に気にせず、「じゃあ一緒に途中まで行こう」と言ってくれたらしい。
なぜ学校に行こうと思ったのかは分からない。
勉強に追いつけない、ということも考えていなかったと思う。
心の病はきっとそういうものだと思う。自分で行動しようと思える気が必ず来る。

学校に通えるようになっても、早退や欠勤は多かった。
体調的には回復したものの、数カ月も他人と関わることや、机に座って勉強すること、
体育や、頭を使うことが不登校の日々に飛躍的に多くなり、「家に帰りたい」「学校に行きたくない」という日々が続いた。

トラブルの生徒もまだ在校中だったのも原因の一つだったと思う。
授業によって移動するときは、廊下で出会わない日は必ずしもないとは言えなかった。

学校が通えるようになってから、私が一番覚えているのが「毎日がつまらない」ということだった。
これはきっと中二病じゃないかな(笑)と思うこともあるのだが、自律神経失調症、過敏性胃腸炎、拒食症、入院という普通の中学生なら笑って青春を謳歌している時に、自分は地獄を味わってきた。死にたい、消えたいと強く思う出来事をどれだけ同級生が経験しているのか。いや、きっとしていない。
皆バカみたいに群がって、子供だなと恥ずかしながら思っていた。

また時々男子が先生にやらかすイタズラも心底嫌っていた。
何となく学校に行けるようになってから、私はやっと自分の学習レベルが低いことに気づいた。
今まで休んだ分をどうにか追いつけるようにと授業にはとても真面目に受けていたと思う。

ある日、Sという男子が授業中に騒ぐ。どこにでも見られる学校の風景だ。
先生が注意しても収まらない、周囲の生徒は先生に同情するものや、笑ったりするものがいた。
そんななか、私は「S、うるさい。」といった。
小学校から知っている仲だったこともあり、気軽に注意できた。
するとSはすんなりと黙り、先生も注意した私を褒めてくれた。

そのSは小学校の頃から何かと私に話しかけたり、下校途中も途中まで一緒だったため、なんやかんやとついてくる変なやつだった。
何故だか分からないか、「Sはモンゴロイドの言うことはきく」ということから、よくSを注意していたのは覚えている。

また、休み時間になるとその日の日直が黒板を消すという役割だったが、その日また男子生徒が消さなく先生が黒板を消すまで授業はしないと言いだした。
しばらくクラスはしーんとした空気になったが、ここも私はこんな無駄な時間を過ごすならと、席を立ち黒板を消した。
先生は私の行動に感銘を受け、女子生徒からの好感はアップした。

こうやって見ると、私は昔から正義感が強い人間なのだと思う。
もちろん自分のためというのもあるのだが、やはり「誰もやらないのなら私がやる」というどこか正義感めいた性格は、大人になってから苦労することもあるということを知った。

同級生と自分との経験の違い、男子生徒がするイタズラ、女子生徒の群れる習性。
そんなこと日々見ていると、こんなつまらない人生がいつまで続くんだろうと良く思っていた。

時には先程紹介した先生に「人生がつまらない」というような、今思えば中二病全開的な発言をして先生を困らせた。あの時の自分は本当にどうにかしていたと思うので、今も同級生には絶対に会いたくない(笑)

 

体調を取り戻し、何となく学校に行ける日々も続くようになったのは、好きな漫画とそれを共有する友達ができたから。

中学校一年から不登校になるまで、野球部のマネージャーをしていたのだが、
トラブルの原因がそこにもあると思い、美術部へ変更。

美術部は本当に性格の大人しい子たちばかり、先輩も大人しい人ばかりで美術部は私のように不登校になった生徒がいく場所みたいな感覚だった。

同じ時期に不登校になった子がいたり、小学校の時にとても仲の良かった子達が美術部にいたということもあり、自分なりの居場所を見つけられた。

そこで私は色んな刺激を受けた。
全然興味のなかった洋楽(アブリル・ラヴィーン)を知ったことで、兄も洋楽(パンク)が好きだったことを知ったり、V系椎名林檎などあらゆる種類の音楽を知れた。
また、紹介された漫画「最遊記」にとてもはまり、峰倉かずや先生が手掛ける作品や、イラスト集をよく買っていた。

良く趣味を見つけなさいとか、好きなことをするのが心の薬と言われるが、本当にそう思う。
共通の趣味を共有することや、その話をすることで私の心もより回復をしていった。